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ギャンブル依存症に囚われた人々:実話短編集

今回はちょっと気分転換して、ギャンブルの魔力に取り憑かれた人々の実話エピソードを集めた短編集の記事を作成しました。世界的な文豪から身近な事件の加害者、スポーツ界の有名人やカジノの伝説まで、多様な人生がギャンブル依存症によって大きく揺さぶられました。それぞれのストーリーは独立していますが、どれも人間ドラマに満ちており、時に胸を打ち、時に驚かされる内容です。一人ひとりの運命を辿ってみましょう。

エピソード1:文豪ドストエフスキー – 賭けに溺れた魂の救済

19世紀ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーは、壮大な文学作品で知られる一方、自身もギャンブル依存症に苦しんだ人物でした。特に彼を狂わせたのはドイツの賭博場で出会ったルーレットでした。1863年、ヨーロッパ旅行中に立ち寄ったカジノで彼はルーレットの魅力に取りつかれ、一度負け始めるとその損失を取り戻そうとして何度も賭け直し、泥沼にはまっていきました。彼自身がこの時期の体験をもとに書いた小説『賭博者』には、「ハンドルを一回転すれば、すべてが変わります。今の私の手元にはゼロ。でも明日、私は死からよみがえって再び生き始めるかもしれません!」という一節があります。まさに彼の心情を反映した言葉で、一度の賭けで人生を逆転させたいというギャンブラーの心理が痛いほど表現されています。

若き速記者だったアンナ(後に彼の二番目の妻となる女性)と新婚旅行に出たときでさえ、ドストエフスキーは賭博衝動を抑えられませんでした。平穏に過ごしていたドレスデンを離れ、一人アンナを宿に残すと「4、5日で戻る」と告げてカジノの街バーデン=バーデンへ向かったのです。ところが約束の日を過ぎても夫は帰らず、アンナは異国の地で不安に震えながら待ち続けました。ようやく帰ってきた夫は憔悴しきっており、大負けして金も尽き果てていました。アンナは夫を責めるどころか、涙ながらに彼を抱きしめ「あなたを愛しています。私にはもったいないほど素晴らしい人よ」と励ましました。ドストエフスキーは45歳、アンナはまだ20歳という年の差の新婚夫婦です。彼女の献身ぶりに、彼は羞恥と感謝で胸がいっぱいになりました。実際、アンナの日記には「夫が負けてきたことを決してとがめなかった」と記されています。賭博ですっからかんになった夫が嗚咽しながら「自分のせいで君を苦しめている」と謝罪すると、アンナはただ黙って寄り添い、励まし続けたといいます。この献身がなければ、後に彼が名作『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を書くこともなかったかもしれません。

 
Nana
アンナ夫人の献身的な接し方が後に偉大な文学を残すきっかけになったんですね…

しかし、当時ドストエフスキーは借金まみれで崖っぷちでした。出版社から借金を肩代わりしてもらう代わりに「期限までに小説を書けなければ今後9年間の全著作の権利を渡す」という過酷な契約まで結んでいたのです。そこで彼は追い詰められ、アンナを速記者に口述筆記させる形で驚異的なスピードで小説『賭博者』を書き上げ、期限ギリギリで原稿を納品しました。まさに文字通り命がけの執筆でした。

『賭博者』完成の8日後、ドストエフスキーはアンナにプロポーズし、二人で数年にわたり海外を転々としました。ところが旅先でも彼のギャンブル癖は続き、所持金を使い果たすだけでは足りず、持ち物を質入れしてまで賭けにのめり込む生活が数年間続きます。そんな彼にも劇的な転機が訪れました。1867年から続いた賭博漬けの日々は、ある日突然終わりを迎えます。1871年、モンテカルロの賭博場で無一文になるまで負けた彼は、失意のうちに夜の街をさまよいました。やがて祈りの場を求めて教会に駆け込んだつもりが、そこはロシア正教の教会ではなくユダヤ教のシナゴーグでした。異なる宗教の聖堂に踏み入った瞬間、彼はハッと正気に返ったといいます。まるで冷水を浴びたような不思議な感覚に襲われ、「10年間も苦しめられた忌まわしい衝動から解放された」とアンナに宛てた手紙に記しました。事実、この日を境にドストエフスキーは嘘のように賭博への興味を完全に失ったのです。現代の専門家は「宗教的な安心感を求めた彼がシナゴーグに迷い込んだことで、予期せぬ不安と精神的ショックを受け、ギャンブルへの考え方が崩壊したのではないか」と分析しています。

晩年のドストエフスキーはギャンブルから足を洗い、執筆に集中して名声を確立しました。一時は借金と賭博で転落しかけた彼でしたが、最愛の妻の支えとある種の啓示によって奇跡的に依存症から回復したのです。彼の人生は、依存症に苦しみながらも再生を遂げた貴重な例として後世に語り継がれています。

エピソード2:池袋通り魔事件 – ギャンブル依存が生んだ悲劇

1999年9月8日、東京・池袋の繁華街で無差別殺人事件が発生しました。昼下がりの池袋駅東口、買い物客や通行人で賑わう路上に突如として狂気が放たれます。犯人の男は手に包丁と金槌を持ち、「むかついた、ぶっ殺す!」と叫びながら次々と人々に襲いかかりました。この「池袋通り魔殺人事件」では、2名が死亡し9名が重軽傷を負う大惨事となりました。白昼の繁華街が恐怖と悲鳴に包まれ、日本中を震撼させた事件です。

犯人の名は造田博。当時23歳の青年でした。事件当時、彼は東京で新聞配達の住み込み労働をしていましたが、その生い立ちは岡山県の片隅で育ったごく普通の少年時代に始まります。造田は大工の父と内職をする母のもと、幼い頃は安定した暮らしを送っていたと言います。しかし彼が中学生になる頃、家族の運命は暗転しました。1980年前後に同居していた祖父母が相次いで他界し、遺産が入ったことをきっかけに父親がパチンコや競艇などのギャンブルにのめり込んでしまったのです。さらに悪いことに、母親も父に影響されるようにしてギャンブル漬けとなっていきました。

気づけば両親は消費者金融や知人から借金を重ね、総額5000万円にも及ぶ借金地獄に陥っていました。やがて家には連日取り立て屋が押し寄せ、両親は追い詰められます。造田が高校2年生、17歳の頃、ついに両親は夜逃げ同然に姿を消しました。それまでの一年ほど、両親は深夜にこっそり帰宅しては造田にわずかな食費を渡し、すぐまた出て行くという生活を送っていたそうです。家には息子ひとりが取り残され、借金だけが山のように残りました。

実は造田は非常に優秀な学生でした。中学3年生のとき猛勉強の末、県内有数の進学校に合格したほどで、将来は学者か医者になりたいという大きな夢を抱いていました。しかし、両親の蒸発と莫大な借金によって、その夢は無残にも断たれます。大学進学どころか生活基盤すら失った彼は、学業を続けることが困難になりました。頼る親もおらず、進路を諦めて地元を離れ、やむなく上京して新聞販売所で働き始めたのです。

こうした背景を抱えたまま数年が経ち、迎えたのが1999年の事件当日でした。造田は心に鬱屈を抱え、「自分の人生をめちゃくちゃにした世の中への怒り」や「生きていても意味がない」という絶望感に支配されていました。そしてあの日、「誰でもいいから殺して自分も死刑になろう」と決意し、池袋の街へ凶器を持って出たのです。結果として無関係の人々の命が奪われるという最悪の形で、彼の破滅的な決行は果たされました。

逮捕後、造田博は裁判で死刑判決を受け、現在も死刑囚として収監されています。彼の行ったことは決して許されるものではありません。しかし、この悲劇をギャンブル依存症という観点から見ると、彼自身もある意味で被害者だったのではないか、という声もあります。もし両親がギャンブルに溺れなければ、造田の将来は潰されずに済んだかもしれません。彼は優秀な頭脳を持ちながら大学で学ぶ機会を奪われなければ、事件を起こすこともなく、夢を叶えて社会に貢献する人生を歩んでいた可能性だってあります。また、仮に当時の日本に今のような依存症治療や支援体制が整っていて、両親が早期に治療を受けられていたら…結果は違ったかもしれません。

 
Miku
依存症の早期治療はやはり大事ですよね…

もちろん、だからといって事件の罪が軽くなるわけではありません。しかし、ギャンブル依存症の連鎖が一家と若者の人生を破壊し、さらには無関係な他人の人生まで奪ってしまったという事実は重く受け止めるべきでしょう。造田博の物語は、依存症がもたらす悲劇の深さと、本人のみならず周囲の人生までも狂わせてしまう恐ろしさを物語っています。華やかな都会の雑踏で起きた惨劇の陰に、実は誰にも助けられなかった一人の青年の絶望があった——そんな背景を知るとき、私たちは改めてギャンブル依存症への対策の必要性を痛感せずにはいられません。

エピソード3:元大相撲力士・貴闘力 – 土俵から奈落へ、すべてを失ったギャンブラー

かつて大相撲で活躍し、幕内最高優勝も果たした名力士・貴闘力忠茂(たかとうりき ただしげ)。土俵上では豪快な相撲で人気を博しましたが、その裏で彼は深刻なギャンブル依存症に苦しんでいました。意外にも、少年時代の貴闘力はギャンブルを激しく嫌っていたといいます。というのも、彼の実父が筋金入りのギャンブル狂で、借金取りが毎日のように家に押しかける家庭環境で育ったからです。幼い頃から借金に怯える生活を送り、「自分は絶対ギャンブルなんかせず、コツコツ真面目に金を貯めてやる!」と心に誓って相撲の世界に飛び込んだのでした。

しかし、皮肉なことにその誓いはあっさり破られてしまいます。入門後、兄弟子に競馬場へ連れて行かれ「お駄賃をやるから馬券を買ってこい」と頼まれたのが運命の分かれ道でした。貴闘力自身も試しに自分の金5千円で馬券を一枚買ってみたところ、思いがけず40万円以上の大当たりを経験してしまったのです。5千円が一瞬で80倍にも膨れ上がった快感に、若き力士は震えました。この人生初の大勝ちの高揚感こそが、後に彼を深みに引きずり込むきっかけとなりました。「あの時の興奮が忘れられなかった」と彼自身も述懐しています。

それ以来、貴闘力は稽古と食事以外の時間を公営ギャンブルや賭け麻雀にのめり込んで過ごすようになります。朝稽古が終われば体を休める間もなく競馬場や競輪場に直行し、給与や懸賞金のほとんどを馬券や舟券につぎ込みました。手元にお金があるときは興奮して賭けに走るあまり本業の相撲に身が入らず成績が振るわないのに、所持金が尽きるとやることがないので相撲に集中して強くなる──そんな極端な循環を繰り返すようになったのです。実際、ある場所で好成績を収め三賞や報奨金を手にすると、その金をまた種銭にギャンブルで使い果たしてしまうという有様でした。

若手時代には、力士仲間で数百万円単位が飛び交う花札賭博の大勝負がしばしば行われ、貴闘力もその輪に加わっていました。やがて彼の借金は雪だるま式に膨れ上がり、消費者金融に走るようになります。「お金がなくなると、平気で嘘をついてでも借金する」状態に陥り、ギャンブル優先で相撲の稽古もおろそかになっていきました。力士として本来なら大関を目指せる逸材だったのに、賭博に明け暮れたせいで番付は下がり続け、平幕に転落してしまいます。

転機が訪れたのは2010年。当時既に現役を引退し親方となっていた貴闘力は、他の関取たちと共に野球賭博問題に関与していたことが発覚します。プロ野球を賭けの対象に暴力団が開催する違法賭博にのめり込んでいたのです。そのスキャンダルにより、彼は日本相撲協会から解雇処分という厳しい措置を受けました。相撲界からの追放――少年時代から人生のすべてを懸けてきた土俵を失った瞬間でした。同時に、横綱・大鵬の娘だった妻にも離縁を言い渡され、17年間の結婚生活も破綻します。義父である大鵬からすれば、自身の娘婿が反社会的勢力と絡む賭博に手を染めたことは許しがたい裏切りだったのでしょう。こうして貴闘力は大相撲で築いた地位も家族も一度に失い、残ったのは多額の借金とギャンブルへの渇望だけというどん底に突き落とされました。

しかし、それでも彼は賭け事をやめられなかったのです。相撲協会をクビになった後もなお競艇場や競馬場に通い続け、収入が入ればすべて種銭にして借金を重ねる生活が続きました。そんな彼にようやく転機が訪れたのは、協会追放から数年後。専門医療機関で診断を受け、正式に「ギャンブル依存症」だと認められたのです。貴闘力は自らの病と向き合い、治療と回復の道を歩み始めました。それまで「恥」と思って隠していた自分の依存症体験を公の場で語る決心をし、各地の依存症フォーラムやシンポジウムに患者として参加したり、依存症カウンセラーとして講演活動を行ったりするようになります。大相撲の世界で有名だった彼が自らの失敗をさらけ出し、同じ苦しみを持つ人々の助けになりたいと動き出したのです。

 
Nana
一瞬で勝敗を決する相撲とギャンブル、関連性はあるんでしょうか

「勝負師」と呼ばれた男が、すべてを失って初めて気づいた真実──ギャンブル依存は誰にでも起こり得る「病気」だということ。貴闘力は「最初に大勝ちしたあの日が間違いだった。あれで脳が快感を覚えてしまった」と振り返ります。また、「金がなくなれば平気で嘘をつき、周囲に迷惑をかけてしまう。それが依存症の怖さ」とも語っています。彼の壮絶な経験談は、同じ苦しみを抱える人々やその家族にとって大きな警鐘であり、救いにもなっています。今ではYouTubeで自らのギャンブル体験を赤裸々に語ったり、依存症対策のシンポジウムに招かれたりと、精力的に啓発活動を続けています。

土俵の上であれだけ豪快な相撲を見せた英雄も、一歩間違えばここまで転落してしまう。貴闘力の人生は「ギャンブル依存症の怖さ」「そこからの立ち直り」の両方を示す貴重なケースと言えるでしょう。勝負師だった彼だからこそ、今度は自分自身の依存症と真剣勝負を繰り広げ、見事に勝利したのかもしれません。

エピソード4:大谷翔平の元通訳 – 信頼を裏切ったギャンブル地獄

メジャーリーグで活躍するスーパースター大谷翔平選手。その傍らには常に通訳兼アシスタントとして寄り添う日本人スタッフ、水原一平さんの姿がありました。ファンからも「イッペイさん」の愛称で親しまれ、大谷選手がヒーローインタビューを受ける際には隣で笑顔を見せるなど、主役を支える縁の下の力持ちとして知られていました。しかし2023年、その水原一平氏が起こした信じがたい事件が明るみに出ます。なんと、彼は大谷翔平の銀行口座から巨額の資金を不正に引き出し、私的に流用していたというのです。

米連邦当局の発表によれば、水原元通訳は2021年以降、大谷選手名義の銀行口座に不正アクセスして違法なオンライン賭博組織へ送金を繰り返していました。その額は次第に膨れ上がり、合計で1,600万ドル(約24億5千万円)にも達したといいます。当初報道では「少なくとも450万ドル」横領したとされていましたが、それを大きく上回る驚愕の金額でした。水原氏はこの巨額の資金をすべて「違法賭博への強烈な欲望を満たすため」に使い込んでいたと検察は指摘しています。MLBの通訳とはいえ高給取りであり、生活に困っているわけでもない彼が、なぜこんな真似を? 背景には深刻なギャンブル依存症の疑いが取り沙汰されました。

水原氏がここまで巧妙に巨額資金を抜き取れたのには、大谷選手から絶大な信頼を寄せられていた立場を悪用したからでした。彼は大谷が渡米当初から公私にわたりサポートしてきた存在で、通訳のみならず身の回りの世話まで任される右腕的存在でした。大谷選手の米国での銀行口座開設を手伝ったのも水原氏で、そのため口座のログイン情報にアクセスできる立場にあったのです。さらに彼は、大谷に雇われた会計士や財務アドバイザーに対して「この口座は大谷本人が特別にプライベートに管理したがっている」と説明し、第三者が口座を監視・確認するのを拒んでいました。こうして自分だけが口座を自由に操作できる状況を作り出していたのです。実際、銀行への電話確認では水原氏が大谷本人になりすまして送金の承認を行っていたとのことです。

では抜き取った金を何に使ったのか──それは違法ブックメーカー(賭博胴元)への送金でした。野球シーズン中もオフも関係なく、彼は四六時中オンラインの違法ギャンブルにのめり込み、賭ける額も回数もエスカレートしていきました。巨額の送金記録に気づいた米当局が捜査を開始し、2023年に彼は銀行詐欺などの容疑で訴追されました。世間には衝撃が走り、「大谷の大親友とも言える存在が裏切るなんて」と多くのファンが信じられない思いでした。メディアでも連日報じられ、当初は「単なる金目当ての犯行か」「いやギャンブル依存症ではないか」など様々な憶測が飛び交いました。

裁判で明らかになった事実によれば、水原氏は違法賭博で生じた自分の借金を穴埋めするために盗んだ金をつぎ込み、賭けに勝てばその勝ち金は自分名義の口座に入金させ、負ければさらに大谷の口座から資金を抜く……という手口を繰り返していたようです。メールの証拠から、彼が胴元に対し自ら詐取を認める発言もしていたことが判明しました。まさに底なし沼のような賭博狂いで、自分一人では抜け出せなくなっていたのでしょう。

米ニューヨーク連邦検事は会見で「大谷選手はこの事件の完全な被害者であり、送金を許可した形跡は一切ない」と断言し、水原被告が「大谷から与えられた信頼を悪用した」と厳しく非難しました。長年苦楽を共にし信頼を築いてきたはずの相棒に裏切られた大谷選手の心中はいかばかりかと想像を絶します。大谷選手本人は公には多くを語っていませんが、捜査協力には全面的に応じ、判決では被害額相当の約26億円もの賠償命令が水原被告に下されました。

この事件を受け、日本国内でも「依存症は本人の意思の弱さではなく病気だ」という啓発の声が高まりました。実際、水原被告は逮捕後にギャンブル依存症治療プログラムの受講を条件に一時保釈されてもいます。ギャンブル依存経験者で支援団体代表の田中紀子さんは「信頼を裏切る行為に至ったのはギャンブル依存症という病気の症状。必要なのはバッシングではなく社会の理解と適切な規制だ」と訴えています。水原被告の場合、検察側は「依存症ではなく金銭欲が動機」と断じていますが、いずれにせよ彼が破滅的な賭け事に没頭していたのは紛れもない事実です。

 
Miku
病として受け入れる周囲の寛容な姿勢も早期回復には重要ですよね

身近にいた優しい父親のような存在がある日突然巨額横領犯として告発される――大谷選手にとっては悲痛な出来事でした。同時に、この事件は「ギャンブル依存症は誰にでも起こり得る」という恐ろしい現実を突きつけました。どんなに真面目で誠実そうに見える人でも、深みにはまれば人格すら変えてしまう。信頼関係やキャリア、そして自由まで失うリスクがあるのです。水原一平氏の転落劇は、多くの人に衝撃と教訓を与えました。華やかなプロ野球の舞台裏で起きたこの裏切りの物語は、ギャンブルの誘惑と依存の怖さを改めて世に知らしめることになったのです。

エピソード5:伝説のギャンブラー、アーチー・カラス – 奇跡と破滅の“ザ・ラン”

最後はラスベガス史上に名を残す伝説のギャンブラー、アーチー・カラスの物語です。ギリシャ出身の彼は「ザ・ギリシャン(The Greek)」の異名を取り、カジノ史上最大の勝負師としてその名を轟かせました。彼の人生は一攫千金の夢と破滅が凝縮された、まさにジェットコースターのようなものでした。

1992年、アーチー・カラスはポケットにわずか50ドル(当時のレートで数千円)だけを入れてラスベガスにやって来ました。直前にロサンゼルスのポーカーゲームで全財産をスってしまい、ほぼ無一文だった彼は、知人から1万ドルを借りて最後の大勝負に挑みます。ここから始まったのがカジノ史に残る「ザ・ラン(The Run)」と呼ばれる驚異の連勝劇でした。まず彼は借りた1万ドルでポーカーの高額ゲームに勝ち続け、瞬く間に資金を数十万ドルに増やします。その後もビリヤード賭博やクラップス(サイコロ賭博)など次々と種目を変えながら勝利を重ね、なんと3年間で50ドルを4,000万ドル(約40億円)にまで膨らませたのです!この途方もない大金を手にした時点で、カラスは世界中のカジノ関係者から畏怖の目で見られる存在となりました。その強運と大胆不敵な賭け方は「もう二度と現れないだろう」と言われるほどで、ラスベガスの伝説として語り継がれています。

ところが、ギャンブルの神様はそう長く彼に微笑み続けはしませんでした。栄光の絶頂からの転落もまた、凄まじく急激だったのです。1995年までにカラスはせっかく勝ち取った4,000万ドルをほとんどすべて失ってしまいました。負けが込み始めると引き際が分からず、最初はあれほどあった財産が見る見る溶けていったのです。伝説の「ザ・ラン」はそのまま伝説の大敗北へと姿を変え、カラスは結局スタート地点と同じほぼ無一文の状態に戻ってしまいました。

普通ならここで懲りて引退しそうなものですが、ギャンブル依存の怖いところは一度味わった快感を忘れられないことです。カラスも例外ではありませんでした。その後もカジノで賭け続けた彼は、ついには手段を選ばなくなります。なんとイカサマに手を染めたのです。2013年、彼はカリフォルニアのカジノでブラックジャックのトランプに印を付けて不正に勝とうとした容疑で逮捕されました。長年出入りしていたカジノからは永久追放され、ネバダ州のブラックリスト(通称「ブラックブック」)にも登録される不名誉な末路を迎えました。最盛期には巨万の富と名声を手にしながら、晩年はわずかな現金と信用すら失ってしまったのです。

 
Nana
勝ち続けることの恐ろしさ、辞めることの難しさ

アーチー・カラスの人生は、まさにギャンブルの光と影を極端なまでに体現しています。わずかな元手から一夜にして億万長者になれる——そんな夢を叶えたかに見えても、結局はすべてを失い奈落に落ちる危険と隣り合わせだということ。カラスはインタビューで「自分は幸運ではなく勇敢だっただけ」と語ったことがあります。確かに彼ほど大胆不敵に大金を賭け続けられる人間は稀でしょう。しかしその勇敢さゆえに、彼は引き際を誤り、人生を狂わせてしまったとも言えます。

今では伝説のギャンブラーとしてカジノ史に名を残すカラスですが、そこから学べる教訓は「勝ち続けることの危うさ」と「負けてもやめられない依存の怖さ」でしょう。40億円もの大金を手に入れてなお賭け続けずにはいられなかった彼の姿に、ギャンブル依存の業の深さが見て取れます。喉元に突き付けられた富と快感は、人から理性を奪ってしまうのです。


以上、国内外のギャンブル依存症に関する有名な実話を5つご紹介しました。それぞれ背景も境遇も異なる人々ですが、共通しているのは「ギャンブルによって人生が大きく狂わされた」という点です。ドストエフスキーのようにそこから立ち直り創作の糧にした人もいれば、造田博のように悲劇的な結末を迎えた人もいます。貴闘力や水原氏のように社会的地位や信頼をすべて失ってから初めて過ちに気づくケースもありました。アーチー・カラスのように一瞬夢を掴んだかに見えても、依存症という落とし穴からは逃れられない例もあります。

これらの実話は決して他人事ではありません。ギャンブル依存症は誰にでも起こり得る病気であり、一度ハマってしまえば自力で抜け出すのは非常に困難です。その陰では本人のみならず家族や周囲の人々の人生まで巻き込み、取り返しのつかない結果を招くこともあります。大切なのは、依存症を正しく理解し、早期に対策や治療につなげることです。もし身近にギャンブル問題で苦しむ人がいたら、決して頭ごなしに責めるのではなく専門の相談機関に繋いであげてください。ギャンブルそのものに罪はありませんが、「のめり込ませる罠」が潜んでいることを忘れてはいけません。

強烈なドラマを持つこれらのストーリーが、読者の皆さんに何か感じるところを与え、ギャンブル依存症への理解や対策の一助になれば幸いです。人生という舞台で二度と悲劇を繰り返さないために――今一度、私たちは彼らの物語から教訓を汲み取りたいものです。

参考資料:(各エピソードの出典)

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